コラム

川崎大師河原の歴史

『プロローグ』

JR京浜東北線の鉄橋から、東京湾に至る多摩川下流約8kmの沿岸には、川崎を代表する名だたる工業群が立ち並んでいたが、ここ数年の間にその殆どは撤退して、大きく変貌をとげようとしている。

大正初年からの川崎市の工場誘致運動により、川崎大師への参詣道と、両側に果樹畑の続く長閑な田園が、急速に工業都市へと移って行った。

明治製糖、明治製菓、東芝、コロンビアレコード、味の素、富士製鉄(新日鉄)の大工場が相次いで建設され、響き渡るサイレンの音と、立ち昇る煙が繁栄の象徴として、市歌や校歌にも誇らしく謳われるようになった。

更に、昭和10年代に至ると、池貝自動車(コマツ)、いすず自動車、日本治金、日金工・・などが進出して、多摩川畔は完全に工場で埋まった。

また、30年代には、東京湾岸は海苔の養殖場だった大干潟が埋め立てられ、日本一のコンビナートと化し、街の繁栄の反面、日本一の公害都市の烙印が押された。

その後、50年余りが経過した現在は、行政・企業・市民の努力や自然の自浄効果などにより、多摩川の水質も想像以上に改善され、シジミも取れるようになったり、アユも遡上してきている。

また、多摩川周辺の工場移転後の跡地には、高層マンションが立ち並び、急激に人口が増加している。(上の写真は現在の大師河原)

『歴史を辿って』

多摩川の萱(カヤ)

多摩川の萱(カヤ)

90年足らずの間に、この大変遷を遂げたのであるが、その昔大師河原地区は、多摩川河岸から江戸湾の河口に出、浅瀬の海岸に連なり、いくつもの寄州が集まった土地で湿地も多く、葦(アシ)や萱などが繁茂していた。

この葦や萱は、江戸の寺社や民家の屋根を葦(フ)く材料として供給され、寺社の屋根で有名なのは、江戸の日蓮宗本山池上本門寺の大坊(修行僧の宿命)の屋根に使われていた。
現在でも近くに「ダイボノ」という屋号の家があるが、大坊野のことで、先祖はこの萱場の管理をしていたという。

池上新田

この地を支配していたのは、武蔵国荏原郡池上村(現在の東京都大田区池上)に住む豪族、池上氏で鎌倉時代から幕府に仕えて栄えていた。

池上氏は、大師の萱場に野守を派遣して管理させていたが、当時、徳川家康の旗下、小泉次太夫吉次という人が、幕名により多摩川に並行して川崎を貫く大灌漑用水掘削(稲毛・川崎二箇領用水)の工事を行っていた。

池上幸種氏は、住み慣れた江戸池上の地を本門寺に寄進し、一族を率いて大師河原に移住した。この灌漑掘削工事に協力する一方で、広大な萱場を水田にするべく埋立て開拓を進めた。

埋立開拓工事は、息子の池上幸広氏の代に完成し、水田が開かれ「池上神田」と呼ばれ、大師の発展に大きく寄与した。

池上氏の邸宅は、土塁を巡らした広大な屋敷であったが、戦災で消失し、現在、跡地は池上新町の名で一つの町になっている。

川崎大師河原の酒合戦

酒合戦とは、名だたる酒豪が部下を率い、二つの軍に分かれて飲酒の量を競い、相手を飲み潰すというもので、双方には底なしの大将がいて、采配をふるっていた。

「川崎大師河原の酒合戦」は、史上最も有名な酒合戦で、一方の大将として戦った茨木春朔という江戸の医者が著わした「水鳥記(スイチョウキ)」という本で軍記風に面白おかしく記されている。この故事を再現する形で地元では、毎年「水鳥の祭り」というイベントが行われている。

川崎大師平間寺で、当時の衣装を身につけた江戸方に扮する17名が、大八車に酒樽を積んで待ち受け、互いに問答をかわしながら、激しい飲みあいを繰り返すというものである。
(写真は「水鳥合戦」(大師河原酒合戦)・・・川崎大師平間寺)

水鳥合戦(酒合戦)
水鳥合戦(水鳥の祭り)

 

大師小学校(昭和14年)

参考にした資料

  • 「川崎大師興隆史話」古江亮仁著
  • 「奇食・珍食」小泉武夫著 ほか

投稿者:神奈川県川崎市在住 A.A氏